GOOD MORNING
STAR SHINE〜にどめのこうこうのさんねんかん〜バンドのおはなし〜
長い学生生活後、高校に非常で勤めることと、ピアノ教室を担当することが決まり、春休みが来ました。
そこに、高校の同級生から電話あり。
「バンドやらん?」とのこと。
いいよ、といったら、これが社会人バンドで、間もなくのコンサート準備中。ゲストかと思ったら、スタジオ代までもたされるし、練習も多くて、ええ、っと思ったけれど、久しぶりなんだから、いいのかな。(大学祭で、バットマンとかのコーラスはしたのです)
中身は、爆風スランプ、サザンオールスターズなどでした。楽しかった。学生終えたばかりの身が、突然、筋金入りの社会人たちの目にさらされる、その方が勉強になりました。いいオトコばっかしでした。社会人の音楽の楽しみ方のひとつなんだろうな、スタジオ代を払うのも、楽しみなんだろうな、ライブの企画もたのしいのだろうな、と思いました。
学生時代のクラシック中心の生活がこうして急激に方向が変わり、忘れていたものがよみがえってきたのです。自分が高校生の時には、3年間学祭バンドをしていたのだから。そして、これがきっかけで、レンタルCDに通うようになりました。
そこで得たのは、有頂天、筋肉少女隊・・・ケラさんを発見できたのでした。
勤め先の高校は、比較的自由で、生徒の自主性が尊重される「自主の庭」。出身校もそんなにきびしくはなかったけれど、それに比べたら、もっとゆるやか。文化祭のバンドは、もっと派手。ちゃんと暗くして、ステージで、照明あり。
(出身校では昼のひかりのなか、同じ床面の体育館でやっていた。)
これが、上手い子達はうまいもので、私も、最初の2年間はのりのりで踊ってきました。(3年目は体力がついていかなくなりました・・・)
音楽の授業は、クラシック路線も守ったけれど、5分間ミュージックというコーナーをつくり、生徒各自の推薦する音楽をかけました。ただし!感想を書いてもらいました。自ら聞くことがなかったであろういろんな曲を聴けておもしろかった。ブルーハーツ、プリプリ、バンドばやり。イカ天の頃だったかな。
私自身の活動は、またバンドを離れ、主に声楽グループのコンサート。
2年目は、このアンサンブルグループでヨーロッパへ行き、うたおうということに。ワタシも、なんとか自費で旅行。ベルギーの広場や、パリの響かないポンピドーセンターの前で歌ったり。また、ともだちとレールパスを使って行き当たりばったりの旅行をしました。ベルリンへも降りることができ壁を削ってみたり(壁はもうなくなっていました)、ホテルの予約は一切ナシで、1週間密に動きました。
私たちは古楽に興味があったので、古楽を教えているという日本人に会うのも目的でした。
3年目。市民ミュージカル参加。あいかわらず下手な踊りだけど、やらせてくれて有難う。
仕事も3年目となってくると、慣れ、というのか、毎日「こんなもんなのかな」、という気持ちとなる。・・・このまま毎日毎年同じことをして、見合いとかで結婚するのもひとつのじんせいだよな、そんなもんだよね、たぶん・・・なんて考え出した頃、スポンサーがつきました。留学したいといったのは何年も前のことだったのに無視されていたのですが、突然「留学はどうした」と言い出したのです。
それなら、と、留学先を考え出しました。
私は疲れていました。学校を辞める、というのも、非常に言い出し難いことでした。疲れてはいるが愛着もある。放ってしまうのが、申し訳ないような気もする。
3月が終わってからも、ビザなどの手続きも、これでは出発に間に合わないのじゃないか、というほど直前に、大阪の領事館へ行き、ビザをもらいました。春に小さなコンサートをして、疲れたまま、日本を離れたのです。
とにかく思い出深い仕事先でした。私が仕事を始めた年に、2年生に「Aちゃん」と呼ばれていた、とっても気さくで、歌の上手な女の子がいました。私は1年生を教えていたので担当ではありませんでしたが、合唱部の部員でしたの指導したことがあったかと思います。今や、うたうお医者さんとなり、さわやかに活躍しています。
授業では「私の十八番(おはこ」という伝統(?)、つまり生徒の自由演奏ということもしました。「1分53秒」、ジョン・ケージの作品を「演奏」してくれたI君、演奏中、顔がまっかになりそうだったこと、良く覚えています。よくやってくれました。
それからKはピアノを踏んづけてくれました。最初から、なにかやりそうなヤツだな、と思っていました。日本から出て、やっぱり今でも、なにかやっつけていると思います。
最初2年間担当した生徒は、割とよく覚えています。書き始めたらきりがありません。
たくさんたくさん、自主の庭から、素敵な生徒が巣立っていきました。
それから、もうひとり、私の担当学年に、学祭バンドで輝いていた女の子がいました。普段の彼女はジミ目で礼儀正しく、舞台でそんな風になるとは、予想もできないのです。人付き合いもとっても良く、自分が高校生のときに、彼女のように明るく、付き合いやすい人間だったらよかったのに・・・なんて、思いました。歌もうまくて、毎年たのしみでした。
2005年11月、彼女は永眠しました。31歳だったと思います。冥福を祈ります。
GOOD
MORNING STAR SHINE, THE EARTH SAYS HELLO!
初リサイタルは、彼女のために。
追記 2012年
このページを書いてから、幾年もたちました。いまやSNSも発達し、そのおかげで合唱部OBから見つけてもらったりしています。
あのとき10代だった生徒たちと20代後半だった私が互いに20年付け加えた年、こちとらアラフィフであり、生徒たちも40近くなり、すっかり大人です(もちろん私よりおとなです)。今、あたたかい再会を許してくれる彼らに感謝しています。
2005年に亡くなった生徒Kちゃんだけではなく、他の知らない生徒も、知らないところで亡くなっていると聞きます。これも普通のことでしょう。私自身の子供とあまり年の変わらないKちゃんの子供さんたちもすくすく育っています。他にも、同じ年のお子さんを持っている生徒もいます。
Kちゃんは、私が留学したころからずっとたくさん手紙を送ってくれました。本人にもいろいろあったであろうに、今読み返すと、本当に私のことを応援し続けてくれていたのです。同級生との写真や、無理やり書かせた筆不精の同級生の手紙を同封してくれたこともあります。
現在、ある人がとても気になるな、と思ってよく考えたら、その人にKちゃんの面影を見ていた、ということもあります。私の趣味を見抜いていた彼女のことを思うと、あの話もしたかった、この人の噂もしたかった、と思います。まだまだ涙が流れる日もあります。
毎年11月が近づくと、予報のようになんとなく気分が変わっていきます。Kちゃんに笑われてしまいますね。
今年は日本でヘアカットに行きました。なんとなく、Kちゃんを思い出すような方が笑顔で対応してくれました。後で気が付いたら、イニシャルが同じで、全体の名前は一文字違い。日本人ならではの思い込みの偶然なのでしょうが、うれしくて、同時に、泣けるできごとでした。
出会えたことに感謝。
2012年8月