講習会

アメリカの講習会

日本の講習会の思い出

ブールジュの春

 

音楽の雑多な話

音楽の雑多な話

ミュージカル

教えること

声について

 

講習会の思い出

 

まるで留学したての若い子のような題名です。(一応古い留学生ですの。)

では、脱線しながら、若い気持ちに戻って書いてみましょう。

今のフランス滞在の間接的なきっかけになったような、アメリカでの講習会です。

1987年頃でしたでしょうか。

 

 

青い山脈

アメリカ、キャロライナ州(南?北?忘れちゃった)「青い山脈」での講習会。ブルーマウンテンと呼ばれるところです。

参加にはカセット審査もあるし、パンフを見てドルを換算して、これじゃだめだなあ、と思っていましたが、どういうわけか進学お祝いに化けてやってきました。同じ学年のお友達とふたりで出発。ふたりとも別に英語はできない!!(そりゃ大学受験のときまでは熱心にやったけど、しゃべれない。)

 

きっかけは、大学での声楽の公開講座。とてもひょうきんなピアニストで、指導しながらひとりで踊っているようなアメリカ人でした。歌以外の人が、歌手を指導するなんて、そのことそのものに、まずびっくりしました。でも、“欧米では”普通のことらしいのです。声楽の先生が歌って見せて「こうです」なんていわなくても、みるみる歌が変わって行くのです。たしかに、いくらいいお手本があっても、歌う本人がわかっていなければ、変わらない。

この先生が指導するサマーセミナーを皆にすすめられていました。でもオーディションがある。あの、かのジュリアード音楽学校のある国だから、難しいんじゃないの?と思っていましたが、じつは・・・・講習会、サマーキャンプっていうのはね・・・アマチュアでもいいんです。または、アマチュアや学生だから、OKなのかもしれません。なお、この年にはこの先生は不在だったのが残念です。

 

道中おまけ記・ソウル

早朝に、まず韓国航空でソウルへ。しかも、一泊。コレは航空会社の都合で一泊になったので確か費用は向こうもち。

オリンピック前のソウル着。アメリカへ行くことより、こっちの方がどぎまぎしました。だって言葉が全然分からないんですもの。

どうやってタクシーに乗り、ホテルへいき、夕食を頼んだのか、謎です。まっかっかな、おそうめんみたいなものを頂きました。

 

私は空港でひとつ失敗しました。鉛筆を削るつもりで持っていったカッターが手荷物の中に入っていたのです。

預けるまでは良かったものの、それを取り戻すのに一苦労・・・。今なら、即没収です。

 

ニューヨーク

ソウルからニューヨークへ。親切にも、お世話してくださる日本人の方がいらしたのです。数日間、本当に面識がないのに、親切にしてくださいました。疲れている顔が写るのはいやだから、と、写真から逃げてしまうような方です。

昼間はあちらこちらを見学。(お、覚えていない・・・)夜はなんといっても・・・NYへ滞在することが決まってから狙っていた、ブロードウエイ!!ミュージカル見たい!!

当日券をとってもらって、コーラスラインを見ることができました。最後の列でしたが、なんの、劇場そのものが小さいので、よく見えるのです。日本ではどうしてロングランがないのだろう、と当時不思議に思っていましたが、劇場が大きすぎるのも一因みたいです。ブロードウエイでは、見に行く人ももちろん多いけれど、この席数なら、ロングランが成り立つわけだ、と思いました。コーラスラインはすでに、劇団四季の公演を見て、曲は知っている、内容も知っている。(英語は全部分からないのに)最高の思い出です。

 

別れがつらいので、と、風のように去っていかれた彼女にお礼をいい、次の空港へ。たしか、横3列というちいさな飛行機に乗って目的地へ近づきました。あんなに揺れる飛行機に乗ったのははじめてです。怖かったし、おりてからもずっとからだがぐるぐるしていました。これで終わりではなく、広大なアメリカのこと、また車で2−3時間は走ったと思います。講習会に参加する人が迎えに来てくれたのです。面識のないもの同士、気軽に一緒に行けるんだなあ・・と感心する余裕もなく、なーんにもないところをひたすら走って、とにかく、ふらふらで講習会場へ着きました。


アパートは感じのいいコテージ。ベッド、調理場つき、バスつき。とにかく暑いのでホットパンツに着替えて、別棟の、先生や、受講生が集まっている部屋へ行っては見たものの、からだはふらふら、周りがなにいってるのか、あいそうを振りまく余裕もない・・・・・。

アパートは1階ですが、実は劇場タイプのホールの2階に並んでいる、というつくり。そこでハチに刺されちゃった・・・

 

 

内容

レッスンはいろいろありました。テーマはオペラと、歌曲、(当たり前かな)、時期をずらして、楽器の講習会もあったと記憶しています。

 

 

声楽個人レッスン

ピアニストとの個人レッスン

公開レッスン(聞くだけ)

オペラ(実際に簡単なコスチュームをつけて)

発表会

体操

                                                                                         

私は他にフランス歌曲のレッスンをとりました。

 

大きな犬を二匹連れたオバチャマ先生が私のセンセイでした。もうほとんど忘れてしまったけど、言葉が分からない割には、言われたことはわかっていたみたいです。もちろん私がそう思い込んでいただけ・・・・という可能性はありますが、OKが出ていたから、きっと大丈夫だったのです・・・???

 

伴奏者

数人のピアニストと練習する機会がありました。これらのピアニストは受講生ではなく、指導者としてきている人たち。歌のレッスンのときにも、もちろん伴奏ピアニストがいますが、それ以外にもピアニストの指導を受けるレッスン時間があります。ピアニストはまずピアノの専門であり、本人が歌うわけではありませんが、「歌の伴奏の」専門家なのです。

音楽の分析、構築を歌手に教えるという意味で、必要な人々です。楽譜から読み取ることを、きちんと理詰めで説明してくれました。作品も、多く知っています。言葉についても、何語であってもかなりうるさく指導されます。または教えてくれます。

なぜ数人とだったかというと、クラスの内容によるため。個人レッスンの為、歌曲のため、オペラのため、・・・とそれぞれ担当のピアニストがスタンバイしていたのです。単なる「伴奏者」ではなく、同時に「指導者」として。

 

彼らは、みなやさしいんです。歌手を伴奏する、ということは、「人と一緒に音楽をしたい」ということだからでしょうか。フランスでも、その専門のディプロムがあります。ディプロムをとっても、違う道へ進む人もいます。 歌の伴奏専門の道を選んだ人は、人間としてとっつきやすいという印象を受けます。

この仕事が専門としてあるのは、もとは、おそらくオペラの練習ピアニストが必要だからということでしょう。楽譜が読めないオペラ歌手、とか、音がひとりでは拾えない、大体、ピアノの弾けない歌手も少なくない・・・ということはおいといて、どっちにしても、オペラの膨大な役の部分は、伴奏者に付きっ切りになってもらわないと勉強しきれません。

また、彼らはオペラのみならず、歌曲のことも良く知っています。知らない曲をもっていったとしても、ものすごい勢いで初見して弾きますし、あっという間に分析していきます。

 

楽器の伴奏者との違いは、言葉の知識の必要性です。

 

日本だったら、オペラの「コレペティ」っていうのかな?せめて、大学での伴奏などは、学生にやらせるより他なし、というのが、なんとかならないものでしょうか。(うちはそうでした)学生同士、お礼をしたり、ということも必要でした。お金を払って勉強に来ているのに、学費以外にお金がかかる・・・でも、簡単に息の合った伴奏者がみつかるわけではないし、礼儀は欠かせません。

もちろん、伴奏することも勉強になるので、それをピアノ科の学生の義務にするのも必要かと思います。

それにしても、最低限、レッスンのときなどは、クラス付きの伴奏者がいて欲しいものです。ピアノ科卒の人はいっぱいいるのに・・・

 

もちろん言葉の勉強も必要なので、まずはそういう伴奏ピアニスト養成から始める必要があります。

この目的で留学される方は少ないと思いますが、

国外で勉強された日本人が地道にすすめていかれることを願っています。

 

日本では、学年の違うピアノ科学生に伴奏を頼むことが多く(同学年だと、卒業学年にもなると、自分の練習でそれどころではないので)自分が歌いやすいよう、先輩面で、うるさく言ってばかりでした。(この態度がまさしくソプラノ歌手かな?)それでも、音楽をつくっているつもりではありましたが、単なる歌い手のわがまま「私のやりたいことに合わせなさい」ではなかった、と誰が言えるでしょうか?。

みなさんゴメンネ〜<m(__)m>

 

オペラ

さて、アメリカの話に戻ります。私は、でっかいおにいちゃんと、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」のワンシーンを演じました。デュエットがあるのです。若い召使の女の子、ツェルリーナは結婚間近なんだけど、どうもね、ドンファンにも結局弱いのよね。「手に手をとって参りませう」(昔の訳だったらこんなかんじ)と口説かれて、どうしようかなあ、婚約者に悪いわア、などと言いながら、さいごには「えーと、ジャ行きましょう!」と、自分からドンファンの手を取って・・・さて、どこへ行くのかなあ〜

という歌です。

そのころは体が硬くて、へたくそな演技で相手には申し訳なかった。でも、こういう役は、やりたくないっちゅうねん。個人的に。仕事で頼まれたらプロとしてやりますが、私にとっては魅力のある役ではありません。(ジョニー・デップのドンファンだったらいいかな・・・)

 

他のアメリカ人の演技をみていて、ギャー恥ずかしくないのかしら、としょっちゅう思っていましたが、よく考えれば日本とは社会習慣が違う。

手を握ることにも別に特別な意味はなし。あいさつは、抱き合ってキス。(フランスは両頬にキスが一般的だけど、「抱きあう」のは、よほどなかの良い場合だけで、こんなスキンシップはないので、私はアメリカの挨拶の方が猛烈だと思っている)

日本なら、とかく「そんなことしたら恥ずかしい、やめなさい!」と親にしかられるようなことが、しかられるうちに入らない「当たり前」のこと。

だから、「へいき」で当たりまえ。しかも歌をやるような人だったら、なおさら。

あーあ。すごいギャップ・・・

だって日本で一生懸命やっていると「やだー、やりすぎ〜」みたいに見られるらしいんだもん。あんた、よくやるね〜って・・・そりゃ下手だからそう見えるんだろうけど。

 

参加者

ところで、参加者の中には、NYで出会った、薬屋で働いている、なんていう女の子もいました。ほとんどはアメリカ人。メキシコからのお医者さんがいました。ガイコクジンはそれくらい。みなが普段どういうことをしているかは聞きそびれたか、忘れてしまいました。これが終わったら軍隊へいく、なんて人とか、けっこう上手で、なんでここにいるの!?なんていう人も。でも、あれが鍵になって声がかかり、仕事が手に入っていたらいいな、と思います。メキシコのお医者さんは、迷いの真っ最中でした、家族もいるし、簡単に国も仕事もかえられない、と・・・

 

そのとき、「ええ、歌で仕事ができるんだ・・・」と、突然思い知らされてショックが走ったのです。

その後、本当はアメリカでも難しいとわかりましたが、私はそれまで、そんな風に考えたこともなかったのです。

 

毎日

朝は、朝ごはんから始まります。余裕があれば朝シャワー、朝シャン。部屋で調理ができるので、同室の子が毎朝、ハム、目玉焼き、サラダ、トースト、コーヒーという、がっちり真面目なメニューを作ってくれました。このために買ったバター(マーガリン?)が、やたらでかい容器だったのでびっくりしたのを覚えています。そう、ほんとうに何でも大きいのです。これをクッキーにつけて食べるのもおいしかった。

 

さてご飯の後は、毎朝のストレッチ。私、この指導の先生が大好きでした。ダン、と呼んでいました。他の時間帯にもこのセンセイによる体操の時間があったと思いますが、そっちの内容はあまり覚えていません。

ある夜、私は全く眠れないまま、朝のストレッチに顔を出しました。

でも、「寝てないんです」という図々しさはあったようです。(言いたかったんですね)

真剣な顔で、静かな口調で「部屋に戻って休みなさい」と言われました。いいかえれば、怒られたわけです。

でも、それがなんて優しい言葉なんだろう、正しい言葉なんだろう、と、身にしみました。

おかしな話ですが、そのときは誰かのそういう類の一言が必要だったのです。

たぶん疲れが出ていて、悩みも出ていたから。

 

買い物

買い物は自力で。朝ごはんはプログラムに入っていないから、自分で確保せねばなりません。といっても、車がなければなにもできないので、ときどき、人が出かけるのに便乗しました。確か、たいして大きくない街でした。大型スーパーでの買い物ついでに、くつしたなど買いこんでみました。Tシャツ、短パンに、足首にみつ折(またはくしゃくしゃ)くつした、スニーカーという人たちの格好が気に入ったのです。Tシャツと、くつしたの色をそろえるだけで、こんなにおしゃれになるんだな、と思いました。ピアスもこのころから気になり始めました。どんな格好をしていようと、ピアスだけでおしゃれに見えるのです。

週末はプールに遊びに行く人もいましたし、私たちも一度、「宝石さがし」に挑戦。

 

買い物の不要の昼夜は食堂で。食堂はまた隣に別に建っていて、セルフのようにお盆を持って回るが、でもたいていメニューは決まっている、というもの。あれ、おいしかったのか、まずかったのか!?うーん・・・?

 

コンサート

さて、毎週なんだかんだコンサートがありました。歌曲などテーマごとだったり、オペラだったり。舞台つきのホールもあるのです。そんなとき、とてもうまくて、ブラボー!ワンダフル!と素直に声をかけたくなる人もいるが、あまりそうではない人もいる・・・。どうしよう、でも声をかけたいな・・・というとき、good jobなんていうのかな?と、周りから聞こえることを勝手に判断して使っていました。やっぱり、声をかけるほうが、何も言わないより、いい。結果はどうあれ、well done, やったことが大切なのだから。

 

オペラのコンサートは、毎度、簡単なコスチュームをみなで使いまわししていました。カーテンをドレスにするような気合です。知らない作品を耳にすることもしょっちゅう。たとえば「シャッカーンアッソングー」というのが耳についたオペレッタの曲。その部分だけフランス語の、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」のはずです。へえ、国によって、オペラの勉強をする内容が違うんだなあ、と漠然と思いました。

・・・もの知らずなだけだったかな?

 

冗談コンサート

でも、一番良く覚えているのは、最後にやった、うちあげのような冗談コンサート。ロッシーニのネコの二重唱なんて、あたりまえ。

オペラのパロディ大会。この辺はエンターテイメント好きな、アメリカかな?

ホントは単なるラブシーンが、人形のベッドシーンになっちゃったりして・・・(それが本当なんだろうな)

シリアスでロマンチックな曲のはずが、歌手も男性ふたりで人形のようなメイクになると、出てくるだけで大笑い。

私たちもやりました・・・コシファントッテ(モーツアルト作品)の、姉妹の二重唱。でもね、もとからおかしな曲なのね。召使にだまされて、ふたりの姉妹が恋人を戦場へ見送ったあと、ふたりのかっこいい男たちがやってくるので、どっちがいいか、と・・・(ホントはその恋人が変装してる)相談する曲。

「どちらかといえば、髪の黒い方がいい」「そう私はブロンドがいいわ、素敵な方よ」・・・・ニホンゴ版ではそういう出しなんです。で、これを、おそろいのドレス着て、私はメガネをかけてリボンして、こどもっぽい格好して、「カメラをもって相手をパチパチとりながら」うたったのです。まったく、笑いをこらえるのが大変でした。でも大うけ。まったく・・・日本人観光客は、写真好きだからね。

 

これ日本じゃできないよねー・・・と何度言いあったことか。

 

でもこういう「楽しみ方」は日本では見たことがありませんでしたので、とても好きでした。

なんといっても、ここにも「エンターテイメント気質」を感じました。

 

勉強した曲

フランス歌曲の先生はアメリカ人女性。一ヶ月ほどの長い講習会でしたが、彼女は半分ほどでフランスへ帰ってしまいました。

彼女に、フォーレの歌曲を指導してもらいました。「夢のあとに」、フレンチ入門によくあるパターンです。本当は、技術的にも、内容としても、フォーレの作品の中でも、難しいと思うんですが。でも日本人に馴染みがあり、人気のある曲です。

この歌詞を、日本語で読ませられました。ええっと思いましたが(しかも照れるし)そのあとで歌うと、確かに何かの手ごたえが違うのです。

「目うろこ」ものでした。少し、感情を込める、ということのタイミングがつかめたような、意味がわかったような気がしました。

 

この先生は偶然、今では、ご近所さんです。今思うと、レッスンで優しかったのは、ガイコクで生きることの大変さを身をもってご存知だったからでしょうか・・・?

 

講習会でもらった新しい曲は、マスネーのマノン・レスコ―のアリア。仏語のうえ、難曲です。他は、リウ(プッチーニ作曲「トウーランドット」)、ミミ、(ラボエーム、同じくプッチーニ作曲)、モーツアルトのオペラの召使ちゃんシリーズ。他の曲を歌いたくてなんとも不満だったのですが・・・。

だって、たとえば「フィガロの結婚」の召使の、スザンナのアリアというのは、音大受験の18歳(前)でも、高校生の音楽科でも歌う曲ですから「かんたん」という気持ちがあったのです。高音が「ラ」どまりで、高くない、といえば高くない。(本当は、微妙な高音なので、今は難しいと思いますが)

しかし、「オペラの曲の勉強」とは、各自のもち声にあった曲、役としてやっていけそうな曲を学び、将来に備えることなのだ、と知りました。

私のスザンナなどは、テクニックはなんとかなっていても、レチタティーボ(話すような運びで、大きく歌う必要がない)もあるし、役を演ずるという面では、まだまだでしたでしょう。

すでに4年前に勉強した曲を、表現に気を入れて勉強しなおす、という、良い経験でした。

 

リウ(プッチーニ作曲「トウーランドット」)のたった2ページの曲も難曲ですが、とても気に入りました。日本では1曲目のアリア“ご主人様、私の願いを聞いてください”というような邦題の曲をよく聞くと思いますが、2曲目のこちらは、死ぬ間際(自殺)のオッソロしい曲です。個人的には、1曲目よりは歌いやすいと思います。だからというわけではありませんが、この曲の方が内容的に切羽詰っていて好きです。というより、私に“ご主人様、後生ですから私のお願いを聞いてください・・”・なんていう心意気がないから、でしょうねえ。

 

レッスンしてもらいたい、と持参した「トウーランドット」本人のアリアや、「蝶々夫人」(同じくプッチーニ)はとんでもない、と先生に怖い顔をされたのではないかと思います。私の声には「大きすぎ」て負担がかかる、という理由でしょう。

友人は本当にころころ声が回る“コロラトウーラソプラノ”で、準備したレパートリーには問題なし。(夜の女王など)かっこいい曲ばかり歌っていたので、うらやましかったなあ。でも「もち声」の性質で担当を分けられますので、そういうものです。コロも、生まれつきの声の一部です。うまいへたの、技術の問題ばかりではありません。女性は男性の曲をうたうことはないでしょ?

 

練習できるスタジオは、夜でもOK。なにせ、まわりにお墓はあるが、他には自然以外、何もないというとんでもないところなのです。池も森もあったりして。

講習会では、あまり生真面目に練習ばかりしないように、と今なら生徒に言うところですが、ついつい練習ばかりしていました。

 

おあそび

毎週末にはパーティ。金曜日の夜は・・・か、サタディナイトフィーバーか・・・皆着飾って、踊ります。という書き方も、ちょっと不気味なマダムみたいだわ。

どんな曲がかかっていたか忘れちゃったけど、これ、クラシックの人の集まりなの?!ここはディスコだよね。というノリでした。いくつかドレスも持ってきていたので、演奏会に着るほどでもないものは、このとき着てみたり、せいいっぱいの私のおしゃれでした。めずらしく。お酒もがんがん入っていたようです。

真面目そうなセンセイが踊っているのを見るのも、楽しくて。

 

まあ恋愛のまねごとのようなこともあり、ともだちというか、駄話の出来る人もでき・・・終わりも近づきました。

 

「劇場で歌いたい人いる?」

「ハイ」、もちろん。

 

フロリダにできる新劇場で歌えるというのです。講習会の終わりは短くなり、日本へ帰る飛行機も、出発場所がかわるので、連絡便を変更することに。

どうやってやったんだろう・・・??きっと誰かにやってもらったんでしょうね。

さよならパーティーのあとではありましたが、あっけなく、さようならとなりました。

さよならパーティーにもいろいろあったけど、ナイショ。憧れの人とも写真が取れました。

今見てみると、連れ合いに似ているかなあ。髪の毛が危なさげだったけど、大丈夫かなあ。

私はフランスで元気です、と言いたいです。本当にいい人でした。

 

フロリダのおまけ

フロリダ。といえばディズニーランド?一気に暑くなりました。泊まったのは、個人の別荘。講習会の生徒の、祖父母が寒い季節につかうという、おうちです。寝室は2階、別室。ベッドが冗談のように高かったのです。ここで、お湯が出ず、困りました。ゴキブリも出ちゃった。ふたりニホンジンだけで取り残されたので、受講生に電話して聞こうとしましたが、受話器をとりあげるまでに時間がかかりました。

だって、お湯がない、ってどういったらいいの!?(6年間何をならったんだろう・・・)

結局口から出てきたのは”There is no hot water“だったと思います。でもコレが通じてほっとしました。電話だと、さらに聞き取り難いので、ものすごく緊張するのです。

ありがたいことに、いわれたことも、お湯の出し方もわかりました。ほんとかな?でもお湯が出たんだからね。

 

フロリダの劇場は、ほやほや、まだ一部工事中、といった感じの大きな箱でした。大ホールです。楽屋は映画に出てくるような、鏡を裸電球が取り囲んでいるタイプ。まだセメントの匂いがしていたような。

ゆかたを着て、日本歌曲もうたいました。でもね、ぞうりを忘れたので、はだしで・・・。

きばってしまって知られていない曲を歌いましたが、さくらさくら、とかの方が良かったのかもしれません。もちろんソロも、例のオペラのお笑い版もうたいました・・・

 

他に、テレビ録画。座ってただけだと思いますが、いろんな人種の色がそろったのは確かです。ケーブルテレビだったのかな?

 

ここでは、ショッピングセンターへも行きました。やたら冷房がきいていたっけ。今は日本にもありますが、Gapで短パンと、紺色のコットンのサマーセーターを買いました。それに、無印で買った、単に真っ白いシャツを合わせるのが好きでしたが、いまや、どうやってもその短パンには、はいれません。オシリのみならず、足さえも・・・。セーターの方はというと、袖が長めで、だらんとたれるのです。そのだらしない感じが気に入ったのだけれど、実家で調理中に、袖に火がつきました。表面がうっすら焼けた程度で、今でも遜色はありません。しかし、調理中には着ません・・・。

 

どういうわけか、レッスンのことはあんまり細かに覚えていません。だから、細かく何をどうしてどう改良した、と書けないのです。

でも、経験や発見は、身になり血になり、自分のものになったのだと思います。

 

空港でなぜかセサミストリートの黄色いbigbirdのぬいぐるみを買って、なぜか抱いて帰りました。

なぜか今はパリにいますが、さすがに痛んで、子供も目もくれません。

 

帰路

帰りはまたソウル経由。泊まる必要はなかったものの、待ち時間がやたら長いので、空港から出て、大学街を見学する気になりました。ファーストフードに入ってみたり、路上での買い物にも挑戦。(デパートや免税店にもいった記憶がありますが、これは行きの際だったかもしれません。停電してたり、日本の製品と似てるなあ、と思ったり・・・)。露店街では、本当に安く服が買えました。でもおばちゃんが、とてもとてもとてもしつこいのですね。言葉も通じないのに、無理やり引き剥がさないと、去っていかない勢いです。今でも着ているボタン穴が全部開いていない服、髪飾りなどを買いました。あれから値段はどうなっているのでしょうね。日本人には物価が安くて、オリンピックの準備中だったあの頃。すっかり今はかわったことでしょう。ヨン様も(って、見たことないんだけど)

アカンぼだったろうし。

空港に戻ろうとしたら、大雨!!坂道を流れる水を見ながら、必死で空港へ向かいました。

 

まとめ

この講習会で学んだことは、幸か不幸か「歌で仕事ができる」ということでした。

 

日本で音大卒業のあと声楽を続けようというのは、とても難しいと思いました。就職の季節になろうが、たいした求人はありません。ピアノ教室の教師募集くらいです。まして声楽指導募集は、見た記憶さえ・・・?きっとありますが、私はその音楽学校には行かなかったので、どう考えてもOB優先だろう、と応募しませんでした。

仕事がない・・・どうやってコンサート活動を続けていくか?仕事は、学校の、音楽の先生になる方法がひとつ。まともに教員試験を受ける!?しかし今更、常識問題や数学なんてできないよ〜。それに中学の先生になりたい?残念ながら、なりたくない。私には向いていないのと、正直怖いのと。

公務員の正式の先生になる人には、おそらく「将来的に家庭を持って安定しなさい」といわれるであろう男が多いのではないかと思います。つまり、途中退職する男性もいないわけで、空席も少なく、募集もあるかどうか。

 

歌っていきたかったら、ともかく自力で稼いで、自主的にコンサートをやっていくのが、ひとつの可能性。とてもエネルギーが要ります。またはそういう音楽家が寄り集まっている会に参加する。コンサートやオペラの企画もあるし、自分がチケットを売る分も、その分少なくなります。そう、どんな会の主役級でも、チケットを売る。(理屈にはあっていますが、それも知ってびっくりしました。)または金持ちと結婚する・・・

そうはいってもその後、まさしくそのとおりに活動していたわけです。持ち出しで準備をし、赤字が出なければ、それでよし。

 

大学在学中も、先輩からの“伝統”になっているオペラ公演というのがありました。3年だか4年だかのとき、自分たちでオペラ公演(一回きり)を打つのです。1年のときから話し合い、月1万円の積み立てをしていました。学外で頼む演出家、照明などスタッフに払うギャラ、大道具、衣装代(及び残ったら、打ち上げ代)などになります。今思うと、正直ぞっとする金額です。一年12万円を数年・・・・・・音大なのに、なぜ学生みずから準備しないとオペラができないのか?というのも、すでに問題だと思いますが、とにかく大学にはオペラコースがありません。ちなみに、その頃は管楽器科がなく、オーケストラもありませんでした。オケ部があったくらいです。

 

ともかく、在学中から「こんなもんだ」と思っていたわけ。歌う人数は限られるし、スタッフも必要なので、みなが出演するわけでなし、入場は無料。

大変な出費でしょ。

風の便りでは、大学が主催で、地元公演ができるようになったようです。県の予算は削られようと、そうあるべきです。もちろん先生方も不満に思われていたのではないか・・・と推察します。

 

そんな環境で、ギャラをもらえる創作ミュージカルと、市の主催するミュージカルに参加できたのは、とてもラッキーでした。でもやはり、収入となるチケットは売りました。一部は自分への収入、あとは製作費です。そこで、同じ情熱を持つ多くの”先輩“や、同輩に出会い、そのタフなことにめまいがする思いでした。学校の授業をこなし、夜の練習に参加し・・・ということを、長年つづけてらっしゃるのですから。朝から夜遅くまで・・・練習は夜9時10時まで・・・ということもあり、その後しゃべって帰ったら夜中すぎ。体力も、精神力も要ります。もちろん音大に関係なく、他の仕事をしながら好きで歌ってらっしゃる方もたくさんあります。

 

今では、劇団四季があちこち同時にステージをもつので、そのオーディションがある、という話もききました。国立オペラや、大きなオペラ用のホールもできたようですから、ますますきちんと、チケットを売る必要のない、音楽に専念すれば良い、という意味でのプロつくりに力を入れてほしいと思っています。

うまい日本人歌手は、実力の面では、全く問題はありませんから。

 

私たちは「遊んでる」ともいわれます。「趣味」とも言われます。家族の理解がないと、やっていけません。家族の理解もあるかどうか、です。

やる方は、本当に熱を入れて、生きがいとしてやっているのに。

もちろんみな、プロとして扱われる日を思っているんじゃないかな。

 

日本を離れて10年以上たっているので、今の事情はわかりません。良くなっていることを祈ります。

 

 

・・・・・・そんなわけで、大学院1年、7月の授業をサボっていった講習会は、その後の私の人生に暗い影を落とすことになったのでした。・・・ちがうか。

 

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