声について

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声と人

一冊の本

 

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一冊の本から

 

とある本より、訳して引用。フランス人声楽教師の著。

小さい字・青字は、訳者註とか、独り言、とか、愚痴。

 

なお、前項「声について・声と人」に重なる記述も多いのでご了承下さい。

20064月、改稿いたしました。

 

1.パート@ 本の概略  2.読後感想文  3.実例  4.国際共通発音記号

5.鼻母音について    6.母音E     7.練習・実践  8.パートAまとめ?

.フランス語とイタリア語

 

 

1.パート@〜前略〜本の概略訳

 

“私は、声をよく響かせる言語があると確信する。ロシア人やイタリア人が一日中しゃべっていたら、夜には、歌が歌える響きが出来上がっているだろう。中略・・・フランス人の場合、逆のアクションであって、声を響かせない・・・略・・・マダムP

 

(“ロシア声”をもった若いフランス人についての発言。つまり「丸い声」。単にロシアに住んで、ロシア語で話をしていたから。)

 

フランス語独特の難しさについて。

スエーデン人の生徒には、特に指導が必要ではなかった。もう、スエーデン語によってすでに「丸い声」が出来上がっていたからである。

“フランス語は、音声学的に言うと、常に発音が緊張していて、前に突き出されている。“ よくない訳だなあ。 “歌うように話す”南フランスを別として、仏語発声の基本の位置は低く平べったい。

イタリア人の声楽教師が「話すように歌え」というのなら、フランス人の場合、反対に、話し方とうたい方を変えなければならない。若い歌手は、そこから出る音、話し声とは違う音に驚くだろう。音を丸くしなければならないのである。

 

口の中の天井を持ち上げたような感じ、同じく上の口腔に、音をひきつけるような磁石がある感じ

いいにおいをかぐような感触、びっくりした感じで、鼻腔を広げる、

 

以上のポジションで歌うのが良い。

 

丸くするのと、「筒にする」のを混乱してはいけない。「筒にする」のは、大げさなあくびと同じで、粗雑な声音となる。(この辺は訳次第・・・同じ単語で、音が粗雑、というのと、ガンガン響く、という意味がある。ガンガン響いて粗雑な音で聞こえない音)それは避けなくてはならない。

私が「もちあげる」とよぶ所の方法は、音程、母音の色を確立し、次のリチャード・ミュラーの文章と重なる。

 

母音の音色の同等さは、得られるだろう

それぞれの母音が自由に形態   周波数にまとをしぼった 

・・・おお、訳せん。英語→仏語→日本語・・・

 

つまり、各母音をきちんと響かせる場所が確定していたら、母音が同等に響くであろう、と。

 

「声の明るさ」を追及しすぎるフランス人教師の欠点をあらわす、こんな話がある。入学試験で、すでにドラマチックソプラノの美しい音色で丸い声をもった受験生がおり、審査員を感心させた。しかし、ひとりが意見を保留し、こういった。

「この声を明るくしたら、今のように美しい声のままだと誰が言えるだろうか?

この教師はよくある間違いをしている。教師は“どこまで明るくさせられるか”、ドラマチックなもち声なら、どこで明るくするのを“止めるか”を知らねばならないのだ。

むやみに明るくするのは目的ではない、ということでしょうか。

 

「丸くすること」で、音は美しく、遠くへ飛ぶようになるので、欠かさずそのコントロールを忘れてはならない。

 

フランス語は、外人へも発音のせいで問題をもたらす。イタリアでフランスオペラの指導をしたとき、まず、鼻母音を得ようと、読ませる練習をした。読む文には大変よくできるようになったのだが、うたう段になったら、声は、丸みを失っていた。後悔すべき結果、予想しなかったことであった。結局、フランス人と同じように「持ち上げて」話さなければならなかったのである。

 

アア、訳すのって大変。全国の翻訳者の皆様、ご感心・感謝申し上げます。本当に。

 

 

2.読後感想文

この著書に対しては、私は非常に複雑な心もちなのである。そしてそのために?なかなか前に進めないのである。生徒にも、声楽教師にも向けた本で、納得できることも多いのに、納得行かないときには、なんとも納得がいかないのである。声楽の本は、いくら良く書かれていても実践に使うのは難しい。私ごときが、といわれたら仕方ないかもしれないが。

 

ここに訳してみたことは、本の冒頭に書かれている内容だ。本の出だしは大切なのに、あまり明確ではないことがある。

“フランス語云”々に関しては、私は同意しない。

 

冒頭の文章は、“反対を述べるための例か”、と一瞬思ったくらいだが、それは逆で、著者は、その内容にすっかり同意しているようである。うーん、南フランスはそりゃイタリアから流れてごっちゃになったようなもんだから、フランス語も母音が北の方とは違い、日本人には聞きやすかったり、南のなまりなら、たしかに話しやすいかもしれない。トーウールーズで仏人のお友達のできた方、もしパリへいくならお気をつけあれ。アラ、南のアクセントね、と微笑まれますぞ。というのは、あまり鼻母音も鼻に入らないのだ。・・・と書くと、上に書いてあることは正しいように聞こえるが、日本人にとっては、フランス語って「歌うようなことば」だよね?

 

私がひっかかっているのは、おそらく次のフレーズのせいである。

 

フランス人の場合、反対に、話し方とうたい方を変えなければならない。若い歌手は、そこから出る音、話し声とは違う音に驚くだろう。音を丸くしなければならないのである。

 

歌というのは話し言葉から発達したものなのだから、なぜ、かえるのだろう? と、さらりと疑問質問。

 

日本語ほど、ヨーロッパ言語とかけ離れている言葉なら、そう考える必要もあるかもしれない。話題にしているクラシックの唱法というのは、西洋の言葉が元になって確立してきたものだから、日本語の歴史とはあまり関係がない、そういう意味で、開国100年ちょっとの日本には、今でも「よそのもの」だと私は思う。

 

さて、第2ヶ国語としてフランス語をすごいスピードでぺらぺら話す日本人の中にも、フランス語の話し声の響き声までマスターして話している人と、響きという意味では日本語を保ったままの人もいる。どちらでも、生活には問題なくさし支えない。日本人のみならず、昔、フランスの支配を受けていたベトナム人は、フランス語で育ってきている人もいるというのだが(現地での若い人は、またヴェトナム語にもどっているそうだ)その世代かしら?と思う人の中には、しっかりとなまって、ぺらぺらなのに、それこそ「平らな」フランス語を話す人もいる。パリ生まれでも、そういうヴェトナム人両親の元で育ったフランス国籍の人は、やはり、家庭のナマリを受け継いでいる人もいるような気がする。逆に、親が中国人で、どちらも上手に仏語が話せなくとも、子供はきっちりパリジャンしてる場合もある。

おもしろいものだ。

 

さて私が言いたいのは、歌う以前に、話し声には、各国語の母音の(いい響きの)ポジションがある、ということだ。日本人にフランス語の発音を指導するときには、私はこれを用いる。「“歌う”母音」を先に用いることにより、話すフランス語の響きを、よくしよう、というのだ。

となると、著者に面と向かって反対はできないみたいだが、これは日本人からフランス語へ対するアプローチなのだから良いのだ。

 

「フランス人の音はぺたんこでして」といわれると、さらにペタンコな発音の日本人は、一体どうしたらいいの!?と聞きたくなってしまうのである。

 

3.実例

次。

私の生徒は、おもにフランス人のおとな。普通の人たちである。コルシカ方面を含めた南から、北の出身の人、ハクジン、黒人、アジア系、と様々である。たしかに南の人はいい音で、話す声がキレイで、とてもよく響く。しかし、かといって、歌わせると、みな声が朗々と出るわけではない。「話すように歌え」ということになる。そういう点ではたしかに、話す声と、歌う声は違う、ということになるけど・・・著者が述べたのとは、意味が反対だ。私がここで「話すように歌え」というのは、歌声のほうがか細いからだ。

南でなくても、話す声がきれいで、とてもよく響く人もいる。「こういう声が、いい素材というのだな」と思うような、ものすごい声の生徒もいる。しかし、ドとレの区別がつかないので、プロを目指しなさい、とは冗談でも、すぐにはいえない。そして、声が自然に出る人から蚊の鳴くような声の人までさまざまで、とにかく、さまざまなので、フランス人は、とか、フランス語を話す人は、とか、まとめて言えないのである。アジア系の人も、ちゃんと声は出てる。別に「明るくしよう」とも「丸く」とも思わず、話す声を、そのまま伸ばしていけば、とてもいい歌声となるのである。

 

アジア系の例では、話すフランス語も微妙になまっており歌うときにすらアジア訛りが聞こえ、出来ない母音子音はいくら立っても出来ない人(話すのも歌うのもだめ)ケースもあった。なにをうたっても演歌風になってしまい、私はお国を思い出してしまうのである。さらに練習しないし、センセーの言うことを聞いていないがそれは別として。日本人ではない。

シャンソンのレッスンに来られる日本人の方のほうが、よっぽど声の響きが良い。楽譜も読めるし、かんもいいし、集中しているので、進むのも早いのだ。

 

 

4.国際共通発音記号

まとめてみると、各国の言葉というのは、口の中の母音の響きを作る場所が、微妙にちがう。らしい。違うというのは、舌のポジションとか、口の中のスペースの大きさが違う、ということなのだ。フランス語にも母音が多い。さらに私にとっては、英語の母音は、どうしようもなく困難なものだ。たとえば、英語の「A」の発音にはいくつもの発音がある。イタリア語は、厳密に言わなければ、おおまかに母音が5つなので、(開閉母音はあるはず)勉強しやすいといえばしやすい。

辞書のオシマイか、はじめにあるでしょう、顔をたてわりにして、舌の位置を説明している絵が・・・「国際共通発音記号」トイウモノがあるので、ある程度それを頼りにして発音を見つけたような気はなるけれど、あれは厳密にいうと本当には「共通」ではない。しかしかなり役にたつ。

大体は「ア」に聞こえてそれでイタリアものだろうがフランスものだろうが、なんとかなるけれど、その国独得の母音となると、新しいポジションを開拓しなくてはならないのである。「歌う声」を探すのではない、その国の言語の発音を獲得するのが先なのだ。

歌う声は、話す声の延長。話す声のポジションがちゃんと出来ていれば、後は呼吸次第で、ある程度きちんと歌えるはずなのである。

だから、もしフランス人の声がイタリア語作品にうまくのらないというのなら、話すイタリア語の発音をまずきれいにすることである。

 

 

5.鼻母音について

さて、それでは、この著者の失敗談をどう理解すればよいのか?

著者がしゃかりきになったフランス語の母音というのは、おもに鼻母音、および「無母音」という母音であった。(それよりUの発音の方が、私には気がかりなのだが)

鼻母音はたしかに独得で、こんなへんなもんフランスにしかないんじゃないか、と思っていたのだが、どうやらポーランド語にもあるらしい。(こういうことは、世界の言語を全て知ってから検討しよう。)まあしかし、おもに3つ、厳密に言えば4つ、もっとつけたせば、もう少しある鼻母音、「鼻に響かせて」アザブジュバ〜ン(下線部を鼻に入れる)、ってなギャグも日本にちゃんとある。鼻母音でないところでさえも、鼻に響かせると「フランス語っぽい」ので、シャセジュセー(意味は聞かないで)でさえ、鼻にかけて話すギャグになっている。これは本当の仏語では、全く鼻に入る音はないのだ。

 

さて、日本人は、鼻母音を一生懸命練習するので、それなりに、上手に発音できる人がほとんどである。さらに上手に発音するコツは、「ん」も「N」も、「全く発音しないこと」。その前の母音だけで、ストップする。というのは、これはあくまでも「母音」なのであり、「n」という音は、「子音」だからだ。ま、南の方へ行くと、そのあたりに違いが出て来て、nをはっきりいったりしている。(パリで恰好つけたい人は、避けた方が良い。)

 

歌うときの問題点は、本当に“声を鼻に入れてしまう”と、鼻づまりの声となり、響きが減ってしまうということ。だから、鼻に一生懸命に母音を入れる練習をした生徒の歌声が飛ばなくなるのは、自然なことである。フランス語の鼻母音は、あんまり本気になって鼻に入れないほうが、声が遮られず、歌声として遠くまで届く。an ,enは、Aと同じ仲間、onoの仲間。それに、フランス人がきいているのなら、基本的に他の発音がはっきりしていたら、鼻母音を必死で鼻に入れなくても、単語はたぶん理解される。すべてをきばって発音していなくとも、彼らの耳は、勝手に単語をとらえている。フランス人じゃない人が聞いていたらどっちみちわからないから平気〜

 

なお、鼻づまり云々と書いたが、逆に鼻が詰まっているとき「声がかえってよく出る」ということもある。なにかのヒントになる。病的に鼻がつまるのと、「鼻を通す声」とは、似てことなるシステムなのだ。

 

だから、この先生の「後悔すべき、予想できない失敗」の敗因は、この辺にあるはずだ。話し声を歌声に進化させればよかったのが、「話し声と歌声は違う」という前提の下に、話す発音強化をして、その「あいま」に熟考がなかったことになる。

・・・と書いてみたが、待てよ?ウーン、なんか私にもやはりナンカ矛盾があるのか・・・

 

私は、フランス人に「鼻母音は、あまり鼻に入れないで、普通の母音のつもりで歌って」と指導している。何さまよ? さいわい、鼻母音を鼻に入れまくっている生徒は、あまりいない。ただ、歌曲やオペラの場合、なぜか高音に鼻母音が来たりするケースがあるので、解決策は、いつもこれなのだ。作曲家が悪い。

 

というわけで、「後悔」すべきこのできごと、公開すべきではなかったのではないか・・・私が同じ“失敗”に出合ったのなら、教える立場として、恥ずかしくて隠しておきたい事柄だ。まあ、著者も、そんなお年頃は超えてしまったのかもしれないが・・・とはいえ、その解決法が「フランス人と同じように、口のポジションをかえさせて、“話すのと、歌うのを区別させた」、のでは、説得力がない。

 

なお、鼻母音について日本人が注意すべき点はすでに述べたが「n」を入れないこと。

そして、鼻母音のない母音を、鼻にいれないこと、である。

 

英語でも、必要のないところで、やたら舌をあちこちで丸めてRにする、という間違いがある

Hi, Helloには、Rがないでしょう? でも、Rは日本語にない音なので、皆みっちり練習するし、できるようになる。それで、(2音節目をやたら強く長くするのと同様)、何を発音するにもやたら舌を丸めてしまうことがある。そうすると、英語っぽくなるから。

歌も同じように英語なまりにしている人がいる。フランス人も同じ。

実践で言うと、英語でうたうのになれている場合、フランス語でうたうのに苦労することもある。Rの癖で舌が回ることと、「L」の発音の具合がかなり違う。英語の発音は、フランス語で歌う助けになる、とは一概にいえないということになる。英語ナマリのフランス語も魅力的なのですが。

 

ついでに、そういう「音」に関しては、私は、練習していればいつかは出来る、と思っている。だから「この発音、日本人はできないんだよね」とは言わない。

 

日本語にない発音だから、繰り返し練習する必要がある新しい音だから、赤ちゃんが歩けるようになるのと同じくらいの時間がかかるであろう、ということだけである。

 

 

6.母音E 少女Aってのもあったな

さて。もうひとつ著者が教えたのは語尾の「e」である。無母音、「音のないe」という、妙な呼び方をしている。発音するのだし、うたうのだから、「音」はあるのだが、そういう呼び方になっている。

私はだらしない音、と言っている。話し言葉を始め、いまどきのシャンソンや歌謡曲の場合は、のみこんでしまってはっきり発音しないことが多いが、クラシックの歌の時には、音節のひとつに数えられ、つまり音符がひとつ与えられ、歌わなければならない。フレンチオペラを指導していたら避けて通れない。「全ての母音を明確に歌う」言葉の国の人たちだったら、ここで出るなまりは、フランス人には耳障りだろう。

とにかく語尾の「e」は、「エ」と発音してはいけないのだ。(日本語なら、強いて言えば、「う」に近い音だ。)しかし、私にとっては「だらしない音」なので、ノドがだらリとあいていれば、出てしまう声の母音だと思っている。だからなぜ、それが悪影響だったのか、謎である。

 

 

7.練習・実践

なお、各母音をすべての音にわたって発声練習せよ、とは、私は思わない。母音の鳴るタイミングは、子音によっても変わってくる。音の高さによって、ボリュームによっても、口の中のスペースも違ってくる。幾万という組み合わせがある。だから、曲にさっさと入った方が、私はおもしろいと思っている。変な母音があったら、部分的に直す。そこで曲をストップして、必要な発声練習をする。

 

“たった30分”のレッスン時間だと、あれこれ工夫せざるを得ない。でも、30分だって、生徒が勉強しているなら、きちんと進むことが出来るのだ。45分のほうがあわてずにすむので余裕がある。1時間は、長いオペラを勉強する場合にはよいが、初級には、長すぎる。

 

繰り返すが、「母音」「子音」に関しては、私は、練習していればいつかは出来る、と思っている。日本語にない発音は、しつこく繰り返し練習する必要がある。新しいことを体が取得するのには(頭ではわかっていても)かなりの時間数がかかるという。時間をかけて、練習するのみである。

 

ところで、日本語の方がフランス語よりは平たい響きだ、とは思うものの、決して日本語が「歌えない言語」とは言っていないからね、私。

 

 

8.パートA

日本の音楽界は「外から来たもの」を一生懸命とりいれようとしていた。その一方で、唱歌が生まれ、童謡のひとつの歌い方も生まれた。戦後のセミクラシック界はわりとうまく行っていたのではないかと思う。生きてきいていたわけじゃないから、発展の具合は想像するのみだが、もう結構昔になってしまう(とは言え、最近でもあるが)渡辺プロのCD、みな歌がうまくておどろいた。英語もうまかった。そこから繁盛し続けた歌謡曲と演歌は、立派に日本の世界だ。(アジア系には通用する)フォーク、ロックの世界にも、歌のやたらうまい人はいる。(下手な人もいっぱいいるが)ロック歌手なんて、声のいい人、いっぱいいる。

いや、日本語で歌う世界も、確立している、と言いたいだけなのだ。マイクでなら。ポップスにもうまい子がおるねえ(おじさん発言か)。

 

日本語でのクラシックはどうかと言うと・・・、長くなるだろう。個人的には、日本語という言葉・文化を、西洋から来た何百年もヨーロッパで育ってきた音楽・文化という“言語”で表現すること自体に首を傾げてしまうので、はっきりいえない。そういいながら、もちろん、歌いたいんだけど。どこか、“日本語でものを言うという文化“そのものと、西洋音楽文化は、合わないところがあると思うのだ。

西洋オトコがお喋りなのに対して、日本は「オトコは黙って・・・」の世界だから。まあ、これから変わっていくのかもしれないが。

 

日本歌曲の歴史は100年。西洋音楽の歴史も日本で百年。戦後、日本の現代音楽の作曲家は、世界に名を知らしめるほどの活躍をしている。日本から外へ、というのはうまく行っている。才能があるのだ。楽器の演奏家もそうだ。

 

実際の作曲面の言葉の問題は、発音というより、日本語には、一般的な西洋言語のようなアクセントの“強弱”や、単語の“かたまり”がない、ということにある。もちろん、ますます研究してほしい。一方で、外国で学んだ日本人声楽家も、発音をはっきりするつもりで、住んだ国の訛りのある日本語でうたったりしないよう、勉強せねばならないと思う。

 

その@の例を借りれば、日本語の母音は、うたえないことになってしまいかねない・・・日本語の「あ」あくまで「あ」であって、「A」

ではないのだからね・・・

 

 

9.フランス語とイタリア語

フランス人の生徒の初心者には、フランス語で歌ってもらおう、と思っている私だが、たまに、イタリア物を渡すことがある。あの、音大で使ったりする、ヴァッカイだったりする。しかし、“習っていない言語”“知らない言語”という恐怖が先にたち、萎縮してしまい、もう、進まないことおびただしい。日本人が外国語に挑戦するより、もっと固まっていると思う。そんなわけで、歌う母音だろうが、平たかろうが、結局はフランス語の曲を渡す・・・ということになる。

 

ラテン系の言葉であっても、イタリア語とフランス語は、相当性格が違う言葉なのである。同じラテン系なのに、母音を続けて3つでも、全部歌うイタリア語。(ふたつ連続して発音する母音も多いから。)

逆に、最後の母音は、次の言葉とつながって、発音しないフランス語(リエゾンという)、おまけに、もし母音が続いたら、子音をいれてしまい、母音が続くことを防ぐ言語だ。(共通なのは、Hを発音しないことくらいと、おしゃべりなこと)慣れれば、ラテン系の言葉なのだから意味を理解するのにもあまり苦労しないのに、フランス人がそれで困ってしまう・・・・・・・あたしゃどーすんのよ、日本人よ、といってみたくなるが、向こうはそんなこと、かけらも想像していない・・・

 

そんな、おもしろかなしの冒険はまだまだ続きそうである。

 

 

追記 2012年8月

今読むとわかりにくい書き方で相済みませんが、ここまで読んでくださった方に、最近の考えを書き足しておきます。

フランス人生徒の譜読みの時点で、それが進まない「いいわけ」をしてさらに進まなくする超初心者は減ってきたので、

現在はあまり悩まずに済んでいます。が、やはり初級レベルへの教材に関しては相変らず困っています。

 2011年に出会った言葉はフィンランド語です。上記に出てくる「北の言葉」は、スエーデン。スエーデンは現在フィンランドのお隣の国であり、独立して90年と言うフィンランドのもと親分です。フィンランド国において、スエーデン語は公用語であり、フィンランド人はスエーデン語も学ぶのだそうです。

 さて、そのフィンランド人の話す言葉は私にはとても心地よいものです。男性は、テノールであろうと話すときは「低音の魅力」で、歌う声の予測がつきません。女性は何とも言えない特徴をもった音色です。

フィンランド語は歴史的にも世界的にもうまく収まるところのない特別な言語。スエーデン語は、英語系の言葉で、このふたつには、全く共通するところがないと言えます。まだスエーデン語には首を突っ込んでいませんが、しかし、聞いた感じでは、音色は似ているのかもしれないな、という気もします。ぶっちゃけて書いてみれば、「ずいぶん低いポジションで話すんだなあ」というところでしょうか。

 低いところが出れば、上も出る。と言う考え方が、ひとつ。

 低い声でコミュニケーションをとる国に、クラシックみたいな高音は好まれるのかな?と言う疑問も、ひとつ。フィンランドの作品を少し探してみたのですが、ざっと見た感じでは、フランスに多い高い声向きの作品が、ない印象です。低声用ともなると、簡単に五線の下の下線が出てきそうです。

 

 上記の本はフランスで歌を教える教師が書いたもので、北の各国の作品には触れていません。北の国には、たとえばシベリウス、ちゃんと作曲家がいて、各国語の歌曲があります。フィンランドでは合唱曲も多い事でしょうし他の作曲家もいるはずですが、フランスでは歌曲は全く知られていないのではないかと思います。フランス音楽の影響をうけた作曲家も多いそうですが、シベリウス以外の作曲家を聞く機会はかなり少ないのではないでしょうか。フランスで、フランスに勉強に来た生徒を教えるのだから、「自国の曲は歌わないの?」なんてことを問う必要はないのでしょうが、逆に言えば彼らの国の作品に興味をもつにいたるわけでもないというのは、少し残念なことかもしれません。

 ちなみに日本にもソロの歌曲はたくさんあります。高音が歌いにくいこともあります。私が学生のころには、ヨーロッパ語なまりの日本歌曲の日本人による録音をよく聞いたものです。フィンランドは、言葉が特殊とはいえ、ヨーロッパ圏でもあります。でも、日本は、ヨーロッパ圏ではなく、日本語を話す声と、西洋の声楽技術による発声には大きな隔たりがあると思います。

 

でも、なぜか、好きになってしまうと、声楽曲、言葉がわからなくたって、極めてしまいたくなります。

でも、歌うのは息が基本ですから、やっぱり多少言葉が分かることは、歌うにあたって必要うだと思います。

 

だから歌の留学って、結局、言葉の勉強が重要になってくると思います。

 

 

 

 

 

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