雑歌屋パリ
アレクサンダー・テクニック
これは、声楽の先生にいわれ、わけもわからず始めた習い事です。
切れ切れにつづけて10年以上たちました。
“テクニック・アレクサンダー”と私は深く考えずに書いておりますが、
日本語で探すとアレク(キ)サンダー“テクニーク”だったりします。
また、日本では略して「AT」とも呼ばれてるようです。
フランスでは「メトード・アレクサンダー」という表現もでくわしますが、
メトードは単に「習得法」「勉強法」というような意味でしかありません。
調べてみましたら、日本でも、かなり前から教えられています。
もうひとつの体験談〜関節リウマチの立場から〜(モンマルトルのあいあいHP)
フランスへ来て2年目(1993年)のことだったと思います。夏の古楽の講習会に参加しました。うたの先生は、ジル・フェルドマン。フランスバロックのグループ、レザール・フロリサンの初期の録音などに参加していた古楽に強い歌手です。発声練習に、アレクサンダーでのからだの動きを取り入れていました。その後、彼女と同じ声楽の先生につき、その先生にもこのテクニックを勧められました。
実は今でもこれがなんなのか、説明しにくいのです。「背骨」のよい位置を探して背中をひろげ、気分よく生活する手段?とでもいましょうか。このテクニックの創始者アレクサンダーは、俳優でした。ですから、舞台に立つ人間のためのテクニックとして知られてもいます。
たとえば、歌っていると、知らず知らずに、へんな各自の癖が出ます。立ち方が悪かったり、いらぬ所に力が入っていたりします。うたのために、という意味では、このテクニックでもって、できるだけ無駄を省くことを探します。
深く考えず、歌のために始めたのですが、それから月日がたち、もっと深い面があることを、気づかされます。関節リウマチもちとわかってからは、薬が効果を現しているとは言え、知らずにアレクサンダー・テクニックの恩恵を受けているのではないか、という気もします。
フランスには”bien-etre”(ビアンネートル)という言葉があります。英語に置き換えると、”good be”で、 Etreとbeは、同じ役目をはたす動詞です。・・・etre, beというのは、人の存在であり、存在のあり方、気もちのあり方、というか。
・・・”bien-etre”は、ストレスの多い生活には、貴重で、憧れられる状態です。毎日つまらなかったり、調子が悪かったり、いらいらしていたら、その反対、というわけです。アレクサンダー・テクニックは、よい状態をたもちたい、というようなものでしょうか。
日本の指導者の方のHPも多くあります。みなさん上手に説明しておられますので、是非、HPをめぐってみてください。
そういう人の説明を写せば早いのですが、なんというか、自分の言葉で何とか説明してみたい、と思っており、それがなかなかうまくいきません。
ところで、”bien-etre”は、良い状態、いわばリラックス状態のことでしょうか。ストレスがたまる毎日の中で、リラックス法、ヨガ、体操などでリラックスして、それを見つける人々もいます。アレクサンダー・テクニックは、少し違います。瞬時に自分の状態を見極めて、“リラックスしていながらも、内面的に活動的である”面があります。
についたときは、私の仏語はまだつたない状態で、全部はわかりませんでした。テーブルに寝転んで、背骨をイメージして脱力するレッスン。それでもちょうどリラックス法を学んでいるときと重なったで、少しは理解の助けになったのだと思います。目をつぶっていたので、よく眠くなってしまいました。その後、彼女のお引越しで、先生とはさようなら。
二人目の先生には、国家試験の準備講座で出会いました。まずは講座内で、初めてのグループレッスンです。参加する生徒がみな声楽家なので、おそらく話は通じやすかったのではないか、と思われます。ふたり組になる体操も、興味のあるものでした。
現在は、この先生に、個人レッスンしてもらっています。個人レッスンは経験済みなので、言葉として、聞きなれないことは少なし。大きな違いは、目を開けたままということ、お喋りに花を咲かせることです。お喋りは、私がわざと自分に課しているような面もあります。仏語で話すのは、今でも小さなパニックの連続と言えます。それなりに、自動的ではない頭の働きがあります。言葉や文法につまると、何が起こるか?体のあちこちに緊張が起こるのがわかります。重要なことを話すと、息を止めていることもあります。(日本語でも緊張したら、同じですが)
こうして、レッスンの間中、瞬時にして体を解放しなおすことを、続けるわけです。なんちゃって。体をほぐすことは、まずは、自らに緊張があることを自覚することから、始まります。そして背骨を長くして、
あとはひたすら、実行・・・・
これがね・・・実行!
頭ではわかっていても、体がやっていない。とくに時間枠をもうけて練習するのではありません。なれてくると次第に「体がわかって」くれます。「あ、できてないや」と思ったら、「だめじゃありませんか」と自分を叱る必要はないのです。
「あ、ちがってる、やりなおそっと」、で、いいのです。
慣れてくると、毎日が、思った一瞬一瞬が、その繰り返しなのです。だから私はこのテクニックが好きなのです。
たとえばリラックス法などは、「時間を決めて毎日」する、という規則めいた物が必要です。上手に出来る方もあるのでしょうが、私のような怠け者には、その時間を決める、ということ自体が、実はストレスになりかねません。気まじめな人だったら「ああ、今日もできなかった」などと思ってしまい、かえって落ち込んでしまったりして、負担になりかねません。その時間を楽しみに待ってたとしても、その時間になるまでは、または、その時間が取れなかったら、リラックスは“おあずけ”になりかねない。
リラックス法をするとき以外に、そのことを思わなかったら、全体として、前進しにくいこと、になってしまいます。「目をつぶって静かな環境で」するリラックス法は、なかなか手ごわいのです。
さて、なにか感じるたび「感覚としてつかまないように」という注意をうけました。なぜかというと、感覚というものは、日々刻々、変化していて、実は頼りにならないもの!?だからです。一瞬前の自分と、今の自分の感覚が同じだとは、言えないからです。これは新鮮な注意でした。たしかに「あのときのあの感覚を思い出そう!」と思うと、いつもうまくはいかず、「感じられず」「思い出せず」無理も起こります。いつも、「あたらしいことの発見」だと思えばよいのです。これは、歌のレッスンにもいえます。
ひとつだけ、私には不思議な「現象」があります。背骨が良い位置になると、頭に風が吹きます。あるは、よい電気が走る感じがします。
探そうと思って得る感覚ではまったくありません。背骨がよければ、向こうから来てくれます。この瞬間は、私の体に手をおいている先生にも伝わっており、かならず時が一致します。自分でみつけられたら最高です。
この感覚は、以前にもありました。鍼治療を、手でやってしまうという、中国人の医者のところに通っていたときのことでした。つぼによって、頭まで気持ちよ〜く伝わることがあるのです。何か神経の現象として、本当に電気が走るのではないか、と想像しているのですが、どなたか、生理学的に説明してくださる方いらっしゃらないかしら・・・
だって、締め切り前にいらいらしていると、電気スイッチをさわるたび、電球が切れてしまう、という漫画家さんだっていらっしゃるのですから!人間には電気が走っているのですもの。
今現在は、首の様子見です。立ち上がるときに、首のうしろを折り込めていることを自覚しました。頭から立ち上がるのではなく、あごを出して立ち上がってる、と表現していいのかもしれませんが。また、座ってるときも、骨盤に十分「ずわって」いるつもりでしたが、実は背中をそっているときが多いことを自覚しました。ピアノの譜面をよく見るため!?トイレでも・・・?公衆トイレは座式しかないので、ついつい・・・いえいえ、本来はそんな必要はないのです・・・。でも深く座りたくないからなのでした。
テーブルの上で横になり、背骨をととのえ、骨盤が広がると、そのあと、首のうしろをのばされるときにそれが即座に腰まで伝わります。信じられないかもしれなけれど、とても気持ちがいいです。
声楽教授の資格のあとは、アレクサンダーの講師資格?といきたいところですが、何時間こなしても、わからないことはわからないかもしれない、長い道のりです。でも、いろんな面で応用できるように、今はひたすら自分の体と向き合っていきたいと思います。たぶん、少しずつわかっていくことがあり、すこしずつなら、私もまた「ことば」へと移動・翻訳も出来ると思います。からだはわかっているのですが、今は、“言葉にならない”のです。
姿勢といえば、各自、だれにでも姿勢の癖があるでしょう。関節リウマチやリウマチがなくても、悪い姿勢というものはあります。その悪い姿勢を長年積み重ねてると、病気のもとにもなりかねません。
こんな例を聞きました。
見た目の姿勢が悪くても、すてきな音、音楽のピアニストがいた。しかし、翌年、彼は腕をいためてしまった・・・
アレクサンダーレッスンをとおして、見た目の姿勢もよくなります。姿勢がかわり、背中が呼吸をすることで、ピアノの音もよくなります。
上の例の人は、体がかたまった状態でも、よい音楽を作り出せたのですが、長い年月に積み重なったへんな癖は、ある日、彼を肉体的に襲ってしまったのです。
このテクニックは、何年やればそれで習得、というものではなく、一生付き合うたのしみがあります。
こんな例もききました。
有名歌手のなんとかさんも、アレクサンダーを習っている、と。
でも、その歌手は、私の心を全然ゆさぶらない人なのです。私にとっては、特にはおすすめしない歌手で、“声はでるけどつまらないカテゴリー”です。ということは、あとは、その人の生き方が問題、ということになるのでしょう。もちろん個人の好みというものもありますので、これ以上は、言及をやめましょう。アレクサンダー・テクニックは、歌手にとっては、自分の正直な声を、造らずに出しやすくするものだ、と私は思います。(歌手への本も出ています)
自分が歌うときにはほぼ自動的に体に気をつけます。できている、とは言いません。一瞬一瞬、力まないたたかい、からだの中が、動いています。
また、生徒に歌やピアノのレッスンするときは、良い声が出るように、よい音がでるようになる良い姿勢、という形で、毎回、毎週、何かを言いたくなります。自分があてる手を始め、自分の状態も流れてなくてはならなので、同時に自然と自分へのレッスンにもなっているのです。とはいえ、あまり自由にならない、私の手。
私は「関節リウマチ」という病気もち。関節リウマチは膠原病で、全身の関節に炎症が起こります。ただし、関節そのものではなく、関節を囲んでいる液体(滑膜)が、炎症を起こし、結果的にホネをいためてゆくのです。
私の場合は、気づいたら手首の骨がくっついて、もう、曲がりません。手術して骨を切り、ひねることはできるようになりました。でも、「しなやかに」することが不可欠、という手首がなくても、ピアノは何とか弾いているのです。ただ、疲れは早くくるので、長時間の練習はできません。
次の手術まで、希望は捨てませんぞ。右か左か、どっちかな?
フランスで受けている治療は、おそらく日本より躊躇しないもので、薬の量も大目かもしれません。さいわい、良い状態(寛解)を保っています。でも、おそらく病気は完全ストップというわけにはいかず、進行していくでしょう。「治る」ということがない病気なのです。だから一生、薬を取り続けます。でも。
でも、私はアレクサンダーテクニックが助けてくれることがあると思っています。痛みを取り除くのは、医療、薬の仕事。そのあと、悪い姿勢を防ぐのは、自分のしごと。これが難しいのは、痛い関節がある限り、ついその箇所をかばってしまい、知らず知らず、からだの変な癖がついてしまうからです。もちろん、これは病気のない健康な人でも同じですが、関節リウマチがある場合、その癖のために、余計に関節を痛めてしまう可能性があるのではないか、と私は考えます。だから、「これ以上いたむ関節を増やすのは、できるだけ避けたい」のです。
自分の経験では、最近、パソコンに夢中になって、肩こりとなり、首は回すたびゴリゴリ音をたて始め、少し青くなりました。関節リウマチは、首の骨、頚骨に症状が現われることもあるからです。ひどい場合は、首のホネがずれ、亜脱臼を起こします。クビのうしろで神経が圧迫されたら、命に関わりますので、この骨を固定手術ということも考えられるのです。
これが、ひさしぶりにレッスンへ行ったら・・・それで軽くなりました。すごい、と思ったというか、アレクサンダー・テクニックを知ってるのに私って、私って・・・自分で気をつければいいのに・・・と思いました。実はぜんぜん責めていませんが。日本のリウマチ仲間も、こんな方法を試してみたらいいのではないかな、とひそかに思っているのです。
しかし、パソコンにはりついてしまうと、ついつい・・・ある夏には、目をいためて飛蚊症となり、レーザー治療に通ったこともある、マヌケものです。
健康な人だって、関節炎をおこすことがあります。私たちだって、関節リウマチと別に、関節炎になる可能性があるのです。すこしでも、病状は少なく抑えたいのです。
もちろん、炎症があるという「病気」なのだから、わかりませんけどね・・・
今日、まだ上手に説明できないままですが、これも自分の一面、ということで、そのままにしておきます。
私では上手に説明できないテクニックアレクサンダー、ぜひ講師の方のHPを参考になされることをお勧めします。
アレクサンダー・テクニーク littelsoundsさんのレッスン
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