リサイタル後記
Good Morning Starshine〜キヨちゃんに捧ぐ〜
2005年12月。40歳の記念にと思ってリサイタルを企画。11月、教え子の訃報入る。
プログラム
1部
イタリア古典歌曲 愛の喜び・私の愛しい人(カロミオベン)・泣かせてください・クレオパトラのアリア
フォーレ歌曲 Ici bas・揺りかご・月の光・夢の後に
オペラ「カルメン」より (ビゼー作曲) ミカエラのアリア
2部
翼を下さい・大きな古時計・時代〜シャンソン:マリリンへ・同じときに
3部
もしあなたを愛していたら(ミュージカル回転木馬より)・私を見つめてくれる誰か(ミュージカル、オーケーより)
何が残っているだろう? (トレネ)・RIMES(ヌガロ)
1部。クラシック
どしょっぱつから、足が痛んで仕方なかった。かかとも高すぎない形が気に入って、コンサート用にとってある、日本の幅広の「E」の、くろいくつ。立っている間はなんとかなリ、普段は途中から困る程度。でも、それが今回は、最初に舞台に出るときから、痛い。2、3歩が、もう痛くて上手に歩けないのである。関節リウマチが進んだのか?完全に、計算外。
2部。弾き語り
翼を下さい、大きな古時計、時代。中学の頃から、歌いなれている曲だ。ここでマイクを使った。声だけにマイクがあり、ピアノにはなし。そして、自分にも聞こえるように、舞台上で自分の方に向いている「カエリ」のアンプを使ったのだが、時間の都合などで、そのリハーサルをしなかった。本番、そのアンプのボリュームが大変大きくて、耳が痛むほどであった。あまりの大きさに、ピアノが聞こえない。全体として何をしているのか、全然分からないのである。
短時間でも、リハを怠るべきではなかった、と瞬時に思った。自分の声がいちいち必要以上になにもかも詳細に耳に入ってくるのは何ともみみざわりであった。いくら抑えて歌っても、うるさいのである。弾き語りのときは、いつも鍵盤を見ないで、音を聞いて弾くので、それが突然できなくなり、気持ち悪くてとまどった。ガンガン弾くほど、手に力はないのだから・・・録音も、アンバランスはなはだしく、使えない。
3部。ミュージカル、ジャズ編。
ピアニストがいるので、舞台中央へ戻り、やっとカエリのアンプから遠ざかることが出来た。マイクスタンドも使ったけれど、結局マイクは手に持った方が、コントロールしやすい。ただし、重いので長時間はもっていられない。健康な人は平気だろうが、関節リウマチの身には、肘も痛くなってくる。今日は2曲にだけ、手に持った。ここで、高い椅子を使用。リウマチには、ずっと立っているのはこたえるのだ。シャルル・トレネのシャンソンを仏語で始め、ピアノ即興してもらい、後半は英語で演奏したのが、一番よろこんでもらえたみたい。録音をきいたら、この曲だけ7分以上かかっていた。最後にrimes(いい訳がみつからない。韻を踏む、という意味)で静かに終了。この部の録音も、アンバランスはなはだしく、使えない。
すべて「私の趣味」であり、我が40年を一緒に生きてきた音楽“の一部”であった。
私は中高生の時、毎日弾き語りしていた。その頃、ピアノ弾き語りが流行っていた。そのあたりの歌手がポプコン出身者、というのを知って、私もシンガーソングライターに憧れたけれど、才能がないのが分かった。でも、人のつくった曲を弾き語りすることはできる。曲を選ぶのは私だ。
訃報がはいってから、ぎりぎりプログラムに入った曲が二つ。シャンソン2曲。
「同じときに」は、歌詞の方に書いたけれど、前にも歌おうとして、悲しくて歌えなかった曲だ。同じときに、同じ空の下で、人は生まれ死んでいく・・・でも今回は、私はこの歌を歌わなくてはならない、と思ったのだ。
そして「Rimes」も、“理由がわかるのなら、死をも愛そう” という歌詞が何度ものどに突っかかって仕方なかった。
予定に入れていたマリリンも少し辛かった。キヨちゃんは、マリリンモンローが好きだったはずだ。自ら去ってしまったマリリンへの、おそらく追悼の曲。
“僕らの一生は、つかの間の「試しごと」でしかない、
誰のため、何のため、神にしかわからない・・・”
こういった“つらい”曲はうたわないことにしていたけれど、今回は、これからは歌わなくてはいけない、と思ったのだ。
私はフランスに来て関節リウマチになった。ピアノを放棄した。とにかく痛いのだから。力が入らないのだから。字も書けないし、腕を上げるのも一苦労だったのだから。それが治療と手術で、またそれなりに弾けるようになった。指は全部回らないけれど、20年ひいていたピアノはやはり役に立つ。
中学の夢は、結局かなっている。
ミュージカル俳優にも憧れた。踊りの才能がないのは知っていた。でも驚いたことに(怖ろしいことに?)、夢は実現した。そのあとルネサンスやバロック時代の音楽という大敵が現れ、声楽アンサンブルのおもしろさにひかれていき、ミュージカルは、その勉強に影を潜めていった。
けれどフランスでジャズを知り、10年以上もたってから、突然それが、“ブロードウエイミュージカルでもある”と気付いた。途端に、私にその世界がもどってきた。関節リウマチで、手首がまがらないし、疲れるし、ますます踊れないけど、歌えるじゃない。それにクラシック歌手と、ジャズピアニストのふたりでできることはなんだろうかと思っていたけれど、あったじゃない。
でも、もし今、手が使えなかったら、
うたう、という強さがあるかどうか、私には分からない。
手が使えない状態だったなら、
人に「歌があるからいいじゃない」と言われても、
素直にうけとれないだろう。
幸い、今そう言われたら
「そのとおりなの」
と返せる自分がいる。
第3部のピアニストは連れ合い。同居人と練習というのもビミョーなものである。時間を見つけるのも難しい。私が頑固なので、けんか腰にもなれる。
皿洗いと洗濯のあいだに準備した、祭であった。
リサイタルの1ヶ月前に、教え子が亡くなったという急報には、本当に混乱した。
彼女からのメールがもう来ないなんて、信じられない。
そのころ、ちらしはまだできていなくて、リサイタルにつけるタイトルを探していたのだが、急に決まった。
自分の40歳のお祝いに、と思って決めたリサイタルだったけれど、たくさん意味が増えた。
日本にいた彼女は、いずれにしてもコンサートに来られない。だから、きっと聞いてくれた。
彼女は今、どこにでもいるのだ。
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後記のあとがき
2005年のリサイタルから月日が流れ、2010年も目前に迫っています。少しずつ、落ち着いた思い出になってきています。
毎年同じ時期になると、ブログに書かずにはいられない思いがこみ上げてきます。
今年、久しぶりに日本でマリリンを歌いました。同じようにやはり、胸がいっぱいになってくるのを超えていかねばなりません。
このページ、文章もまだ綺麗がっているので編集しようかと思いましたが、2005年の気持ちですので、そのままにしておこうと思います。
2009年11月